小説の茨城  茨城をテーマまたは舞台にした小説集です。小説
 の舞台は、霊峰筑波、徳川光圀公の本拠であった
 水戸、東国の武神を祭った大社を持つ鹿嶋など。
 銅鐸造りに挑んだ男鋳物師・平田喜三郎1   林  栄 子
 
 
 鹿行文学賞最優秀候補作品
 
 題名「銅鐸造りに挑んだ男 鋳物師・平田喜三郎」
    林  栄 子
 内容 礼文島出身の七十五歳の平田喜三郎が、鹿嶋に移住して、定年を迎えた。平多派鋳物
    師で、不要になった工具を文化財として、市に寄贈しようとした。文化事業団の次長
    に、銅鐸や富本銭、銅鏡、銅剣、鈴などの制作を頼まれて鋳造する話である。他生涯
    について記す。
 
 
かしまなだ工房
 
 森田春美が平田老人に出合ったのは、雲一つない、五月晴れのさわやかな日だった。会議室の
ドアを開けると、白っぽい作業衣の老人が、高橋会長と話していた。会長の従業員だろうか。日
本人離れした色白で、ほりの深い目鼻立ちの人である。顔に刻まれたしわや節くれた手に、厳し
い労働をしてきた歳月がしのばれた。
「おはようございます」
春美はすでに集まっていた史跡巡りの会員にあいさつした。会長が笑いかけてきた。
「森田さん、この方は平田さんと言ってねえ、今、銅鐸を造っているすごい人です。礼文島の生
まれでね、樺太で働くわ、いやはやこの手記を読ませてもらうと、波乱万丈の人生ですよ」
 春美は礼文島の言葉に目をみはった。以前、弟や娘が旅して、海がきれいでウニがおいしい、
とてもいい島だったと言っていた。画家の知人も利(り)尻(しり)富士の景観を絶賛していた。そ
れに祖父が樺太(サハリン)で、材木屋を営んでいたという人の話も聞いている。春美はぜひ礼文
島へ行ってみたいと夢見ていた。
 平田老人の手記は「望郷」とか「不死鳥」などの題名で、便箋に毛筆で書かれていて、数冊あ
った。実に達筆なので感心した。
「お借りして、読ませてもらうといいよ」
 春美は会長に勧められて手記を拝借した。平田老人は長い睫毛をしばたたせて、恥ずかしそう
にほほえんだ。
「銅鐸はこの事務所のわぎを借りて造ぐってるから、見に来て下さい」
 少しくぐもった声で聞き取りにくいが、そう言って、平田老人は帰っていった。春美はのぞい
てみようと心が動いた。
 春美は夫の定年と同時に、市川から夫の故郷である茨城県南の鹿嶋市に移ってきた。やがてこ
の地の土に帰るのである。地理や歴史も知らないのでは恥ずかしいし、友達もまだいなくて淋し
かったので、この会に入った。数年前は鹿嶋市出身の会員が多かったが、みんなやめた。新しい
人が多くなって、つまらなくなったと、ある女性がささやいていた。
 現在は昭和四十年代に鹿嶋臨海工業地帯が出来たころ、全国各地から移転してきた、新住民で
ある。この地を第二、第三の故郷として愛し、終の地の歴史に関心を寄せる、熱心な中高年の人
で、女性が多い。
 高橋会長も北海道で農場を営んでいたが、移り住んで成功し、広く土木業を行っている。実に
にこやかで、かっぷくのよい人で、広い敷地内にある従業員用の会議室を、快く会合の場に貸し
てくれている。
 二十分ほど、見学する史跡巡りの説明を聞いた後、平田老人の工房に立ち寄る。平屋の小さな
小屋に「かしまなだ工房」の看板が掛けてあった。平田氏が鹿島灘の海岸で拾った流木や廃材を
もらって、自力で作った、バラック造りの質素な工房である。船のぶいなどが入口に飾られてい
る。小屋の周りには、建築資材が雑然と積み重ねられていた。
 平田氏はどろどろに溶けた銅や錫の真っ赤な溶液の入ったバケツを、子息と天秤(てんびん)棒
(ぼう)で担いで運び、鋳型に流し込むところだった。入り口で見ていると、突然溶液が飛び散る。
春美は反射的に飛びのいたが、上着の胸元が少し黒くこげている。千度以上も熱い溶液と聞いて
いた。もし顔や目だったらと身震いした。
 紀元前二百年ごろの弥生時代に造られた銅鐸と同様のものが、今、目の前で造られている。春
美は怖い思いをしたのも忘れて、初めて見るそのロマンに満ちた光景に見入った。溶岩のように
赤い銅は冷めて灰色に変わった。
「うまくいったかな」
 平田氏は子息に笑顔を向けて、鉄製の棒状の道具で、鋳型から外した。歴史の教科書で見たこ
とのある銅鐸が、みごとに出来上がっている。日本の文化遺産である銅鐸が、このような工程を
経て造られてきたのか。春美は太古の時代に思いを馳せて感動した。
「これをきれいに磨けば完成です。でももっと薄くしないといい音が出ないから、これからです
 よ」
 平田氏は、てれくさそうに笑って言った。春美たちは礼を述べて辞し、市内見物に出た。
 平田喜三郎が鹿嶋の地で銅鐸造を始めたのは、平成十一年(一九九九)の夏ごろからである。平
田は礼文島で漁師をしていたが、漁獲量が減り、生活するのが難しくなった。そのころ鹿嶋は開
発に沸いていて、長男が先に鹿嶋の会社に就職した。友達にも誘われる。
「雪が降らなくて住みやすい地だよ。会社や工場がいっぱい出来て、仕事はなんぼでもある。鋳
物師のいい腕持ってんだからよ」
 平田老人は昭和四十五年、鹿嶋に移り、以来二十六年間、S金属の関連会社で働いた。やり残
したことやしたい仕事はあったが、七十五歳で、体力の限界を感じて退職した。三人の子供を教
育し、家も新築した。緑の木々の多い鹿嶋で、静かな余生を送るつもりだった。
 平田は、樺太の王子製紙会社で働いていたとき、師匠から鋳物工具を譲り受けた。その百年以
上も昔の宝物をどうしようかと思いを巡らす。
 これからはもう、使うこともあるまい。昔の貴重な文化財として、市に寄付しよう
 平田はそういう考えに至って、市の教育委員会を訪れた。
 平田は担当する鹿嶋文化スポーツ振興事業団へ回された。そこで埋蔵文化財の調査を行ってい
る、糸川事務局次長が応対に出た。
「今まで、この工具で、どんな物を造ってこられたのですか」
 平田の話を聞いて、糸川次長は言った。
「電車の車両とか、船のスクリューなどなんでも作ってきました」
 糸川次長は身を乗り出した。
「それでは道具を寄進されましても、使い方がわかりませんので、何か造って、見せてください
 ませんか」
 糸川次長は実際に工具を使うところを見て、その使い方などを記録しようと考えた。平田の技
術をもってすれば、古銭なども造れるかもしれない。ぴんと心にひらめいたのである。
「まず手始めに、日本最古のお金の富(ふ)本銭(ほんせん)を造ってくださいませんか」
 糸川次長は、平田に話を持ちかけた。富本銭は去年の平成十年に、奈良で発見されて、新聞に
も載り、話題をまいたお金である。
「出来るかな」
 平田は富本銭の複製品を見て首をかしげた。
「あなたなら出来ます」
 そう言われて富本銭の製作を引き受けた。平田は市役所の裏にあるプレハブ造りの「かしま文
化スポーツ振興事業団」を出た。今まで見たこともなかった古銭である。平田にとって富本銭の
依頼を受けることはまさに青天の霹靂(へきれき)であった。
 これまでは車両など、実用的な工業製品しか造ったことがなかった。それをなんと、古代史上
注目されている文化財である。一瞬、稲妻が走って、雷にでも打たれたような電撃が体の中を流
れ、畏れの念に体が震えるのをさえ覚えた。
 だが、男がいったん引き受けた以上は、何がなんでも完成するしかない。ヒラタは富本銭を造
るのに必要な、鋳造用具や原材料の調達に奔走する。これは大ごとになったと思った。

富本銭発見
 朝四時に起きて、富本銭に関する資料や本を読んで、研究する。糸川次長が古銭に関する文献
を集めて、平田に手渡してくれた。「秩父市和銅保存会の和同開珎(かいちん)」と高森町教育会
発行の「富本銭再発行」のコピーである。
 それらの資料によると、今まで日本最古の貨幣は、和銅元年(七〇八)に造られた和同開珎とさ
れてきた。ところが明治三十年から四十年ごろ、長野県下伊地方の高森町や飯田市で、古墳から
富本銭がみつかったのである。伊那谷は古代の信濃国の玄関口で、交通の要郷であり、東国道の
重要な官道だった。行宮の造営の記載も残っている。
 「伊那谷は律令国家の重要な兵站基地であった」と、奈良国立文化財研究所の松村恵司が語っ
ている。重要な馬や兵力の供給基地であり、代々金刺舎人という一族が治めており、その古墳か
ら富本銭が見つかったという。
 その後、昭和四十四年(一九六九)に、平城京跡から発掘されて、和同開珎よりも古い通貨では
ないかと注目された。
 昭和六十年(一九七五)にも、奈良県の平城京井戸跡から、「和同開祢(しょう)」を含む奈良時
代の銅銭と共に、富本銭が一枚出土した。
 平成三年(一九六九)には、もっと古い地層の藤原京跡からも富本銭が発見された。平成九年(
一九九七)には、大阪の難波宮の細工谷遺跡から、富本銭が一枚出土した。だが、今まではわず
かに五枚で、数が少なかった。
 富本銭は江戸時代の寛政十年(一七八八)の古銭カタログ類の本に、「富本七星銭」という名称
で、銭の図柄と共に載っていた。早くから貨幣研究者の間では知られていた。
 だが、通貨ではなく、副葬品などの「まじない銭」(専門的には厭(よう)勝(しょう)銭(せん))
とみられていたのである。作られたのも、江戸時代と考えられていた。
 ところがその後、平成十年に七世紀後半の地層から富本銭の完成品や不良品、鋳(い)型(がた)
や鋳(い)棹(さお)などが発掘された。今回奈良県明日香村で、富本銭がたくさん発見された。そ
のため「和同開珎」よりも、さらに古い貨幣であることが、初めて明白になったのである。
 『日本書紀』の天(てん)武(む)十二年(六八三)の記述に、次のように書かれている。
「今より以後必ず銅銭を用いよ」
 その銅銭とは何かと、謎にされていた。明日香村はかつて繁栄を極めた藤原京があった跡であ
る。富本銭が仏具や装飾品、武器などとともに造られていた。発見された富本銭がわずか五枚と
少なかったので、通貨ではなく、副葬品などの「まじない銭」「厭勝銭」だとみる説が有力だっ
たのである。その説が一挙に覆される可能性が高まったという。
 平成十一年(一九九九)、一月十九日の夕方、「富本銭出土」というニュースが、テレビやラジ
オから大きく報道された。翌朝の新聞にも大きく一面トップで載って、騒然となった。その富本
銭を糸川次長が、平田に造ってくれるように言い出したのである。平田は資料を読み続けた。
 『続日本紀』には、和銅元年に「初めて銀銭銅銭を行う」と記述されている。正式な通貨は和
同開珎が最初とされてきた。全国的に五百ヶ所以上から出土して、正倉院文書や多くの文献から
も和同開珎は記録されている。
 それだけに本当に富本銭が古代史の定説を覆して、日本最古の通貨となるのかは、今後のさら
なる研究が必要だと、報道している。
 その後、飛鳥池遺跡から約二百点の富本銭が発見された。そこは富本銭が鋳造された跡と確認
された。藤原京内で流通していたのではないかと考えられている。銅銭一文では力役(一日働い
た労賃)の一日分に相当した。米で換算すれば、一升二合(一六〇t)が買える価値ではないかと
いう。

富本銭造り
 平田は耐火レンガを調達し、炉を築いた。原材料や鋳造用具を購入し、実際に富本銭を造って
みた。古銭などの平たい形の単純なものは、比較的簡単に出来た。糸川次長は富本銭の出来映え
に目を見はった。
 平成七年(一九九五)九月一日、鹿嶋町が隣村の大野村と合併して、鹿嶋市となった。翌年その
旧大野村の商工会主催で、夏祭りが行われることに決まった。平田の造った富本銭の完成に鹿嶋
市の「文化スポーツ振興事業団」は自信を得た。市になった最初の夏祭りのイベントの一つとし
て、子供たちに鉄の「けんかごま」と「富本銭」を造って見せようと企画した。
 森田春美は旧大野村に住んでいる。祭りの会場は「潮騒はまなす公園」である。鹿嶋市北端の
旧大野村は、はまなす自生南限地帯で、はまなすは国の天然記念物に指定されている。
 公園内には宇宙展望塔があり、太平洋と北浦に挟まれた、緑の多い鹿嶋市内が見渡せる。展望
塔の階下は、プラネタリウムや絵画室などになっていて、訪れる人が多い。
 園内には全長一五四メートルのジャンボ滑り台がある。確か日本一長いので、有名になった。
はまなす園には、約七千株もはまなすの株が植えられている。五月から六月にかけて、白や紅紫
色の花を咲かせて、それは見事な景観である。
 夏祭りには盆踊りや郷土芸能の和太鼓競演、舞踊の他に、カラオケや県出身の歌手を迎えての
演歌など、多彩な催し物でにぎわう。きんぎょすくいや風船、綿あめ、焼きそば、ジュースやビ
ール、ラムネ、記念切手などを売る店も並ぶ。
 踊り用のタオルやウチワの他に記念切手の下敷き、テレビや扇風機などの電化製品が当たる抽
選権がもらえる。なんと言ってもお目当ては、豪華な景品であろう。そして最後の花火である。
 市の広報「かしま」や旧大野村の商工会が夏祭り開催を広告で知らせるので、市民だけでなく、
盆休みで帰省した人や他県からも大勢集まってきてそれは盛況である。
 そこに平田老人の鉄ごまと富本銭造りが催されるのだから、一層親子連れが訪れるはずである。
春美は盆客で忙しく、残念ながら見逃した。後日、君和田事務局長にその様子を伺った。
 平田は鋳造用の炉や用具、燃料を公園に持ち込んだ。十数人ほどの子供を指導して、こまや富
本銭を野外会場で造って、大変な人気を呼んだ。子供たちは自分で造ったこまをもらって帰った。
 平田は「子供たちの嬉(うれ)しそうな笑顔を見て、人の役に立てる喜びを味わった。この祭り
での成功で、自信を深めた」と、後に春美が尋ねると心境を述べた。公開鋳造は、多くの子供た
ちに作る喜びや古代史への関心を芽ばえさせたに違いない。そこが君和田事務局長や糸川次長の
意図する願いだった。
 和同開珎は形や大きさが、中国の唐の時代の開元(かいげん)通宝と同様だが、少し軽い。富本
銭は重さもほぼ同一の規格なので、開元通宝をモデルにして造られた日本最古の貨幣とみる説が
強くなった。
 富本の文字は、「国や国民を富(と)ませる本(もと)が貨幣である」という、中国の唐時代の古
典『藝分類衆』から用いられたとされている。
 左右に七つの星が浮き出ている。陰陽五行(ごぎょう)思想の陽(日)と陰(月)や木火金水の五行
を総称した七曜(しちよう)を現わしていた。平田はこうしたUFJ銀行貨幣資料館の一般情報を
読み続けて、ロマンに満ちあふれた、古代への興味が広がった。
 富本銭という名の銭(せん)文(もん)や円形方孔(こう)銭(せん)という形からも、天地万物すべ
て調和がとれた状態である。中国の伝統的な貨幣思想を具現化しているものと考えられていると
いう。
 富本銭は複製品を借り、製作する許可を得て、その模様を鋳型した。そのために簡単に出来た。
 富本銭の製作には成功したが、平田は持っている工具はあまり使わなかった。平田は次の制作
には、もっと工具をたくさん使うものにしようと、意欲を燃やした。

銅鐸造り
 富本銭の鋳造の成功の後、糸川は切り出す。
「実は二年前の暮れに、市内で歴史講演会を行ったんですよ。そのとき、小学生に銅鐸の複製品
を見せたんですが、知らないんです。だから、もっと銅鐸を作ったりして見せたら、子供たちが
歴史に関心を深めてくれんじゃないかと、思ったんです」
 平田は黙って、次長の話を聞いていた。
「平田さん、今度は銅鐸を作ってくれませんか」
 糸川は銅鐸の複製品を平田に見せて頼んだ。
「今、九州で銅鐸造りを実験しているグループがおります。そこからさっそく、資料を取り寄せ
ましょう。製造法や使用法などに関しては、まだ不明なところが多いそうですけど、実際に造っ
てもらって、不明な銅鐸のなぞを探っていきませんか」
 糸川は平田を促した。銅鐸などの複雑なものは、かなり高度の技術を必要とされるが、平田の
技術をもってすれば、実現可能だと糸川は確信した。平田は鋳物にかけては、六十年以上の経験
があるベテランである。
 平田はじっと銅鐸を見つめていたが、「やってみましょう」と、重い口を開いた。こうして、
平田が銅鐸製造へ一歩踏み出したのである。
 糸川は語り始めた。
「銅鐸は約二千三百年も前の弥生時代から、古墳時代の初期にかけて造られています。楽器や装
飾品、祭器として使用されたのではないかと、言われています。
 日本では西日本から主に出土されていまして、高知県の東部や和歌山県、滋賀県、静岡県です。
茨城県内では、未だ一個も発見されていないんです。だから作ってほしいのです。
「この原材料はなんですか」
「銅と錫だそうです。でも、銅鐸の性質などの論文は多いのですが、作り方の資料は殆どないん
です。これを造るには原料を集めて、炉を築き、高温で銅を溶かす燃料や用具や形作りなど、考
えますとかなり高度な技術です。それが二千年も前に行われたなんて、全く驚くべきことですよ。
でも今なら原材料が手に入りますし、あなたの技術ならできます」
 次長は能弁である。平田は銅鐸をつぶさに見て、その美しさに魅せられた。独特といわれる形
に触れて叩いてみる。響き具合もいい。
「まだ文字を持っていない古代人がですね、銅鐸にこんな繊細な模様を描いているんですが、い
ったい何を伝えようとしたんでしょう。作りながら探るのもおもしろそうですね」
 糸川次長がはるか遠い古代へ想いをはせて目を輝かせて語る。その感懐にも共感するところが
あった。子供たちへの教育的な夢や熱意にもほだされる。
「こりゃあ、とんでもないことになったわい」
 平田はそうつぶやいて、いかにも善良そうな笑顔を浮かべた。とてつもない夢に向かって、船
出するような青年のころの覇気が、老いた体にみなぎってくるのを平田は覚えた。
 まず銅鐸の原料を溶かす炉を築かなければならない。それを入れる工房も必要だ。平田老人は
市役所の裏にあるプレハブ造りの「かしま文化スポーツ振興事業団」を出た。その周囲には草む
らの空地があった。土木建設会社の社長の所有なので、さっそく貸してくれるよう交渉する。高
橋社長は温厚な人柄で歴史が好き、史跡巡り会の会長をしていたので、実に好意的だった。
「そういうことなら使っていいですよ」
 話が早く、無料で貸してくれた。平田はそこに小屋を建て、耐火レンガを調達して炉を築いた。
原材料を購入し、着々と準備する。再び朝は四時に起きて、たくさんの資料や文献、金属学など
の専門書を読む生活が始まる。
 本物の銅鐸を見なければ造れそうもない。平田は東京で開催されている「日本国宝展」を見に
行く。博物館を巡り歩いて眺め、わからないところは専門家に質問して熱心に研究した。

銅鐸の公開実験
 平田は新世紀という記念すべき二〇〇〇年を迎えた。七十九歳という高齢者になったが、体調
はよい。新たな気持ちで銅鐸の研究に取り組む。市の事業団の企画で、三月十一日に銅鐸の制作
実験が初めて行われた。
 日曜日なので、会社員の長男修一(五十歳)が、平田の助手として参加した。二人とも全くのボ
ランティアである。
 この実験は三月十五日、「銅鐸を通じ歴史教育」という見出しで、読売新聞に大きく載る。鹿
嶋市文化スポーツ振興事業団が、市内の小中学校に出向いて、古代に作られた銅鐸の公開実験を
して、復元する企画を進めていた。その準備のために行われた。製作実験が成功したのである。
平田が完成した銅鐸を見つめている写真が載った。白い作業衣に厚い手袋をはめて、白帽を横ち
ょにかぶっている。
 昔ながらの工程でコークスを燃やし、銅を約一千度以上の高温で溶かし、銅の流動性や固さを
見て錫を加えた。溶けた合金を粘土で造った型枠に流し込んで完成させた。「流水紋」という文
様が、くっきり浮き出た銅鐸だ。たたくと、二千年前の音色を響かせたという。平田は記者のイ
ンタビューに応じて、成功した喜びを語っている。
「銅鐸も昔の高い技術で作られていた。こうした技術のすばらしさを子供たちに知ってもらえれ
 ば」
「ゆくゆくは他の市町村でも行なっていければ」
 銅鐸製作の抱負を糸川次長も述べている。
 その後も新聞に「古代史に接近」という見出しで、銅鐸複製の記事が載る。実験で完成した青
銅と真ちゅうの写真が載った。平田老人が緊張した面持ちで、鋳型を壊して銅鐸を取り出す。
「まるで宝くじだな」とつぶやいた。その瞬間をとらえた写真も紹介された。「既に約十個を制
作し、実物に近いものができつつあり、十八日には制作過程を一般公開する」という記事である。
火入れから完成まで約二時間を要した。
「炉の温度を千度以上にあげて、銅を溶かすまでが大変で、後は時間との勝負であり、手際のよ
さが大切だ」
 平田は記者の質問にそう答えている。
 音色をよくするには、銅鐸の厚さを薄くするしかない。以前には約五・六ミリだったが、五月
中旬の実験では、約四ミリに薄くすることに成功した。
「今度はだいぶ薄くなった。音もいい」
 平田は満足そうに語った。さらに実験を重ねて、工房や小学校の校庭で、制作過程を市民や生
徒に公開することを検討しているという。
「今後もなるべく古代の人と同じ条件を保ちながら、銅鐸制作技術のなぞを解明していきたい。
子供たちに歴史に興味を持ってもらえたら、この挑戦はとても意義深いものになる」と、市の文
化スポーツ振興事業団が述べている。
 平成十二年(二〇〇〇)の六月十八日に、銅鐸作りの一般公開が行われた。春美は史跡巡りの例
会があって、見学する機会を得た。約十名ほどの市民が、工房の外に陳列された十数個ほどの大
小さまざまな型の銅鐸を興味深げに眺めていた。
 工房の内では、平田父子が炉でコークスを燃やして、原材料の銅や錫を小さなドラム缶で溶か
していた。見学者はその様子も珍しげに入り口やガラス窓越しに見学している。春美は会合に出
席するために、残念ながら途中で工房を後にした。
 翌十九日の新聞に「古代へ挑んだ親子 銅鐸作り公開に感動」という見出しで載る。平田父子
が大きさや形が違う銅鐸を三個作った。その作品を眺めている写真である。鋳型のすき間から溶
けた銅などが流れたが、作品の仕上がりは上々だったという。
「ちゃんと手順を書いておかないとだめだな」
 平田老人は予想だにしないミスに苦笑いを浮かべながらも、作品には満足そうであった。梅雨
晴れのよい天気の日で、十一時公開にもかかわらず、朝の九時ごろから見学者が集まっていた。
一日市民記者になった主婦の田中律子さんが書いた内容で、「秘めたる情熱を実感した」と結ん
でいる。
 古事記などに興味を持っている森本幸子さん(五一歳)も銅鐸作りを見学した。
「それぞれ違った模様で素晴らしい」
 田中記者に感想を尋ねられて、答えている。
「今後は、銅鐸や銅鏡を手掛け、いずれは年数をかけて、ゆっくりと奈良の大仏の十分の一ぐら
いのものを作りたい」
 平田はそう、将来の夢を述べている。
 春美が工房を見学したとき、ほこりを被った棚の上で、磨かれた黒っぽい銅製や銀白色の銅鐸
が、朝の光に輝きを放っていてきれいだった。平田老人が古代へのロマンに魅せられ、日夜研究
して実験を重ね、完成した品々である。その熱意の汗の結晶なのだと感動して、春美は眺めた。
 銅鐸の模様について、晴美は事業団の君和田事務局長に会って、話を聞く。
 事務局長は平田が工房で細工しているのを見た。実に熱心で、その技術の巧みさに、ただ者で
はない才能を見て取った。鋳型に細い銅線を曲げて模様を描き、ハンダ付けしていく。
 波形や人物など、それは見事な手さばきで、上手だった。七十九歳の高齢なのに、眼鏡も掛け
ないで、細かい模様を張り付けていた。本当に根気のいる作業で、好きでないと出来ない手仕事
だろうと、感心して見入った。
 銅鐸の上部には、吊り下げるように穴も開けた。鋳型を作る砂は、各地の砂を幾種類も混ぜて
使用した。その中でも鹿島灘の砂が最適だと平田さんは言っていた。砂を固める技術もどこで学
んだのか、独特で感心した。
 砂が動かないように六、七本かのくぎを枠から放射状のように打ちつけて、その上に砂を乗せ
て圧縮していた。事務局長は話しながら半紙に銅鐸へ描いた模様や鋳型のくぎのさし方を、図に
描いて説明してくれた。
 完成したベル型銅鐸は、平田独自の捜索模様の作品として、現代によみがえった。
「なかなかのものです」
 古代史に詳しい、ある大学教授は、平田の制作した銅鐸をつぶさに見て評した。
 再三新聞に紹介されたこともあって、平田は銅鐸造りの鋳物師として有名になった。
 事務局長が銅鐸を作っている工房を訪ねたとき、口数の少ない平田だが、故郷の礼文島やサハ
リン(樺太)の製紙工場で働いたこと、終戦後にソ連の捕虜になって、船を奪って、命からがら脱
出した体験などを語り始めた。
「殺すか殺されるかの状況の中で、船長らをいざとなったら殺すしかないと覚悟した」
 辺りをはばかりながら、とつとつと語る。
「言いたくない過去は、無理に言わなくていいんですよ。でも、真実を伝えていくことは大切で
すね。何があったか、どんな体験でも、後世に伝えていくべきです。二度と戦争を起こさないた
 めにも」
 君和田事務局長は突然の告白に少々戸惑い、そのような慰めの言葉を述べた。だが、もっと詳
しく平田の話を聞きたい気持ちも正直のところあった。
「口で言いにくかったら、日記や体験談みたいに、文章にするといいですよ」
 事務局長はそう言って、以前、ソ連の捕虜として、抑留されて帰国した人々の会の世話をした
話をした。だれもその苦しい体験を語ろうとはしなかったが、酒宴に入ると、仲間同志で語り合
っていたが、家族にも話さないで死ぬと言っていた。過酷な厳寒の地での労働や共産主義の教育
を受けたこと、仲間が飢えと寒さと過酷な労働で倒れ、次々に亡くなったことなど、事務局長は
小耳にはさんだ。
 こうした話を聞いていた平田は、幾分気持ちがほぐれて、語る気になったのだろう。後日、戦
中の体験も含めて、ざんげするように半生を便箋に書いて、事務局長に手渡した。そのコピーを
高橋会長から春美が拝借したのである。

(続く)

 
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