小説の茨城  茨城をテーマまたは舞台にした小説集です。小説
 の舞台は、霊峰筑波、徳川光圀公の本拠であった
 水戸、東国の武神を祭った大社を持つ鹿嶋など。
カンパズレ      汀 安衛
 
 
 1 晦篭もり        
 タカボリを背に茅屋根の低い納屋が、佇む。
砂丘「タカボリ」には磯なれ松が地を這う、その姿は北風の強い浜、漁村であることを物語る。

 「松−、松はもう少しこっちだ―」
長屋門の前で門松を立てる松吉に冗談をまぜながら、玄蕃が指図をしている。
 「そのままで縛れ−。そのままで−−」
門松の曲がりを気にし、下男の松吉が縄で杭に縛り始めた。
 「旦那さま、こんなものでどうですべ−」
 「うー そんなもんだろ−」

 寛政十年の暮れも押し詰まり、あさっては『正月』である。村中が慌ただしい年の瀬を迎へ、
一夜飾りを避けて正月の松飾りである。
 常州の鹿島浦に面する漁村、角折村名主玄蕃と下男の松吉が門松、注連縄、白砂、お札の飾り
つけをしている。そして、氏神様、床の間、土間、納屋に始まる内飾り、村の産土の差配など名
主として気せわしい日々が続いていた。

 庭では、船頭衆、おかみさん達のペッタン、ペッタンと正月のお供餅を突く音がせわしげに響
いてくる。妻の千代のタスキ掛け姿も勇ましく、下女のタケに指図をしながら大掃除の最中であ
る。
 時々、餅つきの手伝いのかみさんたちが顔をだし、指示を仰ぐ。家の中では妻が絶対の権力者
である。杵を持つ海のあらくれの男衆も陸に上がれば一目置く。

 鹿島浦の荒海を相手に生きる男衆は、家は女衆に任せ切りである。それがまた、男衆、漁師の
゛いなせ≠ナあり習わしに近い。
 あわだだしくせわしい日も暮れ、霜水寺の鐘が七つ時を告げる。大晦日も暮れた。
  「今年も、あと少しになったか−」
ぬれ縁で手を伸ばす玄蕃の顔には、1年間村方が無事に大晦日を迎られる『安堵』が漂う。新年
の準備をたしかめながらしている内に短い冬の日は峯山に隠れ、すでに薄暗くなっていた。

 一段落した正月の準備、次第に暗さを増してきた大晦日の暮七つ半
 青塚村名主、茂兵衛
 荒井村名主、重兵衛
 津賀村名主、藤右エ門の三人が連れ立って
 「今晩は」と、
声を揃えて入ってきた。
「皆様、お揃いで、今年もご苦労様です」
 「どうぞ、上に−、中でお茶でもどうぞ」
と、千代が手招きしながら板間に招き入れて座布団を並べた。
 「それじゃ−お言葉に甘えて」
年かさの茂兵衛が、上がり框に腰掛けて草履を抜きはじめ、重兵衛、
藤右エ門も習い紐を解き始めた。
 「おタケ− みなさんにすすぎを出して」
千代が下働きのタケを呼ぶ。

 「皆様、ご苦労様です。どうぞ上に」
玄蕃が奥から出てきて挨拶をした。割元名主ではあるが、三人は親の代からの名主で、親子に近
い程の年の差がある。座敷に上がり年上の茂兵衛が、いずまいを正しながら
 「早いものですな−。今年も何とか、無事に終りそうですな−」
名主の本音が言葉になった。

 「そうですな−」
重兵衛が相槌を打ちながら
 「大事も無く、無事に暮れましたな−」
重兵衛がしみじみとした言葉で後を継いだ。
 「皆さんのお陰で、私も無事役をこなして来ました。来年も宜し
く頼みます」
 今度は割元名主の立場で、言葉を使う玄蕃であった。
 ひと通りの挨拶が終わり
 「いや−若いが割元としての貫禄が出てきましたな−」と
藤右エ門が、さばけた口調になる。
 何れも実感と七年の歳月が養った事実で、玄蕃の言葉と仕事に重みが増しつつあった。
 「奥方もだいぶ貫禄がついて来ましたねー」
 「いや−皆さん、お口がお上手で」
茶を入れる手を仰ながら応へ、まんざらでもない。それは、五ケ月目の腹をさしての冗談をかね
た言葉で、一同腹らを抱えての大笑いに、成った。

 やがて半時が過ぎ、年の瀬の日はとっぷりと暮れ、山の上にある霜水寺鐘が、 『ゴ−ン、ゴ
−ン…』と五つを告げた。
 「どうですか皆さん、そろそろ出掛けますか、」
と、茂兵衛が催促気味に言いだす。
 「そうしますか」

藤右エ門が軽く頷き、相槌を打つ。三人は恒例の『鹿島神宮晦日篭もり』に出掛ける為に重右衛
門の家に寄ったのであった。暮れの三十一日の夜に参拝し、一年のお礼を述べ、除夜の鐘を合図
に新年の御参りをする事で俗に『晦日篭もり』として言葉は足りていた。網元、名主、商人、河
岸問屋等の旦那衆で晦日から元日にかけての神宮は賑わう。
 鹿島神宮は、常陸一宮で武の神、家内安全、五穀豊穣等の御利益があるとされている。角折村
から二里半、一刻は、かかる。松吉が提灯を掲げ、それぞれ、名主たちは明かりを頼りに草履を
履き、紐を締めるため土間にかがむ。
 
「皆様、気を付けていってらっしゃいまし」
千代が、板の間に三指をついて送りだす。外では松吉が提灯で足元を照
らしている。一行五人は、提灯片手に玄蕃の妻千代に向かって
 「それでは行ってきます」と挨拶をすませて挨拶、
 千代の
「気を付けていっていらしゃいませ」
の言葉を背に受け、歩きだした。
『ザク、ザク、ザク』と霜柱を踏む音が続く。寒さの為口数も少ない。
僅かに、点々と提灯の火が見る。現在ではニ月はじめにあたる。
 「皆同類ですかな」
と、茂兵衛が呟く。その都度、吐く息が白く見へる寒さである。それ
ほど寒い。それぞれに着物衿を立たり重ね直したりして、寒さを凌ぐ。

重兵衛がたわいない世間話しをして寒さと退屈を凌ぐ、一行の足の動きは
変らない。飯沼街道や、下津道から幾つもの提灯が集まり始めてきた。
神宮は近い。       

 森に入った。森の中に入ると星は消へ提灯のみ明かりになるが木々が光
をまとめ以外と明るい。やがて木々の間から門前の家並みと灯りがもれて
きた。人、煮炊きの煙と埃に交じる。食ものの匂い、夜店の呼び声、独特
な雰囲気が耳に入り、年の暮れ、大晦日が実感出来る。
 
「今晩は、今年もお世話になります」
いつもの挨拶を済ませ、旅籠に荷物を置く。
「いらっしゃいませ、今年も色々お世話になりました」互いにいわば儀式
に近い言葉のやりとりのあと、下男の松吉を返し四人は神宮に向かった。
 参道の灯篭に火が入り、提灯が並び昼間のように明るい。行き交う人には
顔見知りも多く、言葉を交わし拝殿に向かって歩く。

大きな鳥居、夜目にも鮮やかな朱塗の楼門をくぐり拝殿に向う。
それぞれに一年の思いを込めて参詣する。
 宿に戻り足を洗い座敷にあがると、すでに料理が待っていた。
席は、ほぼ決まって入る。玄蕃は年若だが、割元名主で上座が指定席である。
 護國院の除夜の鐘が成るまで、ここで今年の垢を流し新年に備えるのである。俗に言へば腹の
中の垢である。人によっては蓄めこみ腹の出る人もあり日常のストレスの解消でもある。
 「皆さん今晩は」
 と、武井浜、大小志崎、荒野、小山村等の名主が到着し席に着く。荒野と小山は旗本、守山藩
と知行所は違うが鹿島浦に連なる漁村での連帯は強い。知行所が同じの大小志崎村から角折村ま
での七カ村の割元名主玄蕃の『地位』は、年に関係はなくほぼ世襲に近いもので強く、重い。
 頃合いを見計らい、茂兵衛が立ち上がり
 「皆さん、揃った所で割元に今年最後の言葉を貰いたいと思います」
一言で私語は止まり、座は静かになった。

 「本日は、多忙の中こうして無事晦日篭もりの席で挨拶出来る事は、御参
  集の皆様方の温かい、そして力強い支へがあったればこそ、ここに揃って新年を迎える事が
  出来ますことを衷心より感謝申し上げます。来年も・・・、」
  と、一通りの言葉を述べ、挨拶を済ませた。
 「割元も話がまとまって来たな」
重兵衛が側でつぶやいた。何事も「習より慣れろ」である。大過無く過ぎる事が名主の最大の仕
事である。

 「ご苦労様でした。有難う御座位ました」
 「来年も宜しくお願します。割元」
座敷は、杯と言葉が行き来する場と変わり、互いに労いと来年への希望が交錯する。【ないだ】
雰囲気が心を和ませる。
 ゆったりとした、時が止まる感じの時間が存在した。名主は知行所と農民、漁民の微妙な間に
いる。片側に立てばでは村が保てず、片方では知行所の面前が立たない。

挨拶の後は、それぞれの立場や村の話から嫁、婿の話まで、尽きる事のない四方山話で時が過ぎ
て行く。 やがて女将が上がってきて、
 「皆さん、そろそろですよ」
  と、告げた。
皆、箸や盃を離し参拝の支度にかかる。羽織袴に着替えまた大鳥居、楼門をくぐり社務所に向か
い「御払い」の手続きを済ませて甘酒を馳走になりながら、昇殿の順を待つ。

その間にも、かなりの顔見知りと挨拶を交わし「今年」もと添える。
 『ゴ−ン ゴ−ン』
やや高めの護国院の鐘が除夜の刻を告げた。

「今年も、あと少しになったか−」
ぬれ縁で手を伸ばす玄蕃の顔には、1年間村方が無事に大晦日を迎られる『安堵』が漂う。新年
の準備をたしかめながらしている内に短い
冬の日は峯山に隠れ、すでに薄暗くなっていた。
 一段落した正月の準備、次第に暗さを増してきた大晦日の暮七つ半 青塚村名主、茂兵衛 荒
井村名主、重兵衛 津賀村名主、藤右エ門の三人が連れ立って
 「今晩は」と、
声を揃えて入ってきた。

 「皆様、お揃いで、今年もご苦労様です」
 「どうぞ、上に−、中でお茶でもどうぞ」
と、千代が手招きしながら板間に招き入れて座布団を並べた。
 「それじゃ−お言葉に甘えて」
年かさの茂兵衛が、上がり框に腰掛けて草履を抜きはじめ、重兵衛、
藤右エ門も習い紐を解き始めた。
 「おタケ− みなさんにすすぎを出して」
千代が下働きのタケを呼ぶ。

 「皆様、ご苦労様です。どうぞ上に」
玄蕃が奥から出てきて挨拶をした。割元名主ではあるが、三人は親の代からの名主で、親子に近
い程の年の差がある。座敷に上がり年上の茂兵衛が、いずまいを正しながら
 「早いものですな−。今年も何とか、無事に終りそうですな−」
名主の本音が言葉になった。

 「そうですな−」
重兵衛が相槌を打ちながら
 「大事も無く、無事に暮れましたな−」
重兵衛がしみじみとした言葉で後を継いだ。
 「皆さんのお陰で、私も無事役をこなして来ました。来年も宜し
く頼みます」
 今度は割元名主の立場で、言葉を使う玄蕃であった。 ひと通りの挨拶が終わり
 「いや−若いが割元としての貫禄が出てきましたな−」と
藤右エ門が、さばけた口調になる。
 何れも実感と七年の歳月が養った事実で、玄蕃の言葉と仕事に重みが増しつつあった。
 「奥方もだいぶ貫禄がついて来ましたねー」
 「いや−皆さん、お口がお上手で」
茶を入れる手を仰ながら応へ、まんざらでもない。それは、五ケ月目の腹をさしての冗談をかね
た言葉で、一同腹らを抱えての大笑いに成った。

 やがて半時が過ぎ、年の瀬の日はとっぷりと暮れ、山の上にある霜水寺鐘が、『ゴ−ン、ゴ−
ン…』と五つを告げた。
 「どうですか皆さん、そろそろ出掛けますか、」
 と、茂兵衛が催促気味に言いだす。
 「そうしますか」

藤右エ門が軽く頷き、相槌を打つ。三人は恒例の『鹿島神宮晦日篭もり』に出掛ける為に重右衛
門の家に寄ったのであった。暮れの三十一日の夜に参拝し、一年のお礼を述べ、除夜の鐘を合図
に新年の御参りをする事で俗に『晦日篭もり』として言葉は足りていた。網元、名主、商人、河
岸問屋等の旦那衆で晦日から元日にかけての神宮は賑わう。   
 
鹿島神宮は、常陸一宮で武の神、家内安全、五穀豊穣等の御利益があるとされている。角折村か
ら二里半、一刻は、かかる。松吉が提灯を掲げ、それぞれ、名主たちは明かりを頼りに草履を履
き、紐を締めるため土間にかがむ。
 
 「皆様、気を付けていってらっしゃいまし」
千代が、板の間に三指をついて送りだす。外では松吉が提灯で足元を照らしている。一行五人は、
提灯片手に玄蕃の妻千代に向かって
 「それでは行ってきます」と挨拶をすませて挨拶、
 千代の
「気を付けていっていらしゃいませ」
の言葉を背に受け、歩きだした。
『ザク、ザク、ザク』と霜柱を踏む音が続く。寒さの為口数も少ない。僅かに、点々と提灯の火
が見る。現在ではニ月はじめにあたる。
 「皆同類ですかな」
と、茂兵衛が呟く。その都度、吐く息が白く見へる寒さである。それほど寒い。それぞれに着物
衿を立たり重ね直したりして、寒さを凌ぐ。

重兵衛がたわいない世間話しをして寒さと退屈を凌ぐ、一行の足の動きは変らない。飯沼街道や、
下津道から幾つもの提灯が集まり始めてきた。神宮は近い。
 森に入った。森の中に入ると星は消へ提灯のみ明かりになるが木々が光をまとめ以外と明るい。
やがて木々の間から門前の家並みと灯りがもれてきた。人、煮炊きの煙と埃に交じる。食ものの
匂い、夜店の呼び声、独特な雰囲気が耳に入り、年の暮れ、大晦日が実感出来る。
 
 「今晩は、今年もお世話になります」
いつもの挨拶を済ませ、旅籠に荷物を置く。
 「いらっしゃいませ、今年も色々お世話になりました」互いにいわば儀式に近い言葉のやりと
りのあと、下男の松吉を返し四人は神宮に向かった。
 参道の灯篭に火が入り、提灯が並び昼間のように明るい。行き交う人には顔見知りも多く、言
葉を交わし拝殿に向かって歩く。

大きな鳥居、夜目にも鮮やかな朱塗の楼門をくぐり拝殿に向う。それぞれに一年の思いを込めて
参詣する。
 宿に戻り足を洗い座敷にあがると、すでに料理が待っていた。席は、ほぼ決まって入る。玄蕃
は年若だが、割元名主で上座が指定席である。

 護國院の除夜の鐘が成るまで、ここで今年の垢を流し新年に備えるのである。俗に言へば腹の
中の垢である。人によっては蓄めこみ腹の出る人もあり日常のストレスの解消でもある。
 「皆さん今晩は」
 と、武井浜、大小志崎、荒野、小山村等の名主が到着し席に着く。荒野と小山は旗本、守山藩
と知行所は違うが鹿島浦に連なる漁村での連帯は強い。知行所が同じの大小志崎村から角折村ま
での七カ村の割元名主玄蕃の『地位』は、年に関係はなくほぼ世襲に近いもので強く、重い。
 頃合いを見計らい、茂兵衛が立ち上がり
 「皆さん、揃った所で割元に今年最後の言葉を貰いたいと思います」
一言で私語は止まり、座は静かになった。

 「本日は、多忙の中こうして無事晦日篭もりの席で挨拶出来る事は、御参集の皆様方の温かい、
 そして力強い支へがあったればこそ、ここに揃って新年を迎える事が出来ますことを衷心より
 感謝申し上げます。来年も・・・、」
と、一通りの言葉を述べ、挨拶を済ませた。
 「割元も話がまとまって来たな」
重兵衛が側でつぶやいた。何事も「習より慣れろ」である。大過無く過ぎる事が名主の最大の仕
事である。

 「ご苦労様でした。有難う御座位ました」
 「来年も宜しくお願します。割元」
座敷は、杯と言葉が行き来する場と変わり、互いに労いと来年への希望が交錯する。【ないだ】
雰囲気が心を和ませる。
 ゆったりとした、時が止まる感じの時間が存在した。名主は知行所と農民、漁民の微妙な間に
いる。片側に立てばでは村が保てず、片方では知行所の面前が立たない。

 挨拶の後は、それぞれの立場や村の話から嫁、婿の話まで、尽きる事のない四方山話で時が過
ぎて行く。 やがて女将が上がってきて、
 「皆さん、そろそろですよ」
  と、告げた。
皆、箸や盃を離し参拝の支度にかかる。羽織袴に着替えまた大鳥居、楼門をくぐり社務所に向か
い「御払い」の手続きを済ませて甘酒を馳走になりながら、昇殿の順を待つ。

その間にも、かなりの顔見知りと挨拶を交わし「今年」もと添える。
『ゴ−ン ゴ−ン』やや高めの護国院の鐘が除夜の刻を告げた。
ニ  盃
 お祓いを受ける。毎年の事乍らここに来ると新年の心が沸き、今年も、今年こそは、との気持
ちに成れた。雰囲気か、祝詞の厳粛さか、お祓いのせいかは判らない。気持ちの区切りが付くの
かも知れない。

混雑する人込みを抜けて、件の旅篭に戻り一同揃って新年の賀詞を述合った。皆が揃ったところ
で、祝杯を揚げようとしたその時、玄蕃が手にした盃が音もなく割れ、酒が跳ねた。その様を見
た茂兵衛がいきなり大声で、
「なんだこれ−、元旦から縁起でもねえ−」
と大声で怒鳴った。

酒が散り、隣の藤右エ門の羽織にもかかる。
 「なんだこのざまは−、元旦に縁起でもねえ−」
その様を見た重兵衛も大声で怒鳴り散らした。
 「まあ−まあ」
 と、隣席の清右エ門、玄蕃が
 「正月からまあ−まあ−」と取り成すが、
 「正月だからだ−」と茂兵衛は納まらない。

 見兼ねた玄蕃が
 「青塚でいいよ」と茂兵衛を宥めた。
 「すみません、すみません」
 「直ぐ取り替えます。済みませんです」
賄いの女衆が、畳に頭を摺りつけ、泣声で謝った。聞き付つけて来た女将も畳に額をこすりつけ
て非礼を詫びた。

詫びなどいらない。それ程『海、漁師』は『げん』を担ぐ。
 「悪い年に成らねばいいがな−」
誰と無く、囁く声が聞こえる。宴は湿り、味気のない醒めた新年になってしまった。主人の接待
もしじらしく聞こえ、話も合わず互に気まずい盃を傾けているうちに、空は白々と明けてきた。
 
やがて女将が来て、旦那様と声を掛けた。松吉が来たことを告げる。刻限はすでに虎の刻に近い。
それを見た茂兵衛が、
 「御一同様、そろそろいかがであろうか」
と、立ち上がり一声漏らした。

 それは、宴のお開きの刻限である。村に帰れば村人との年賀が待っている。互いに、提灯を持
ち満天の星もやや、淡くなり始め村方の待つ家路に着く。
 神向寺の森を過ぎ、明石村の坂を下り集落に入った。村堺には、下男や村の衆たちが焚火をし
ながら待っている。挨拶を済ませ、湿った腹の中を言葉で濁し、それぞれの村に別れて行く。

 玄蕃が家に付く頃には、一行の数も五人前後になり、淋しく成りつつ有った。
 「名主様、お帰りなさいまし」
 「ご苦労さまでした」
村方一同が村堺で迎へてくれた。青塚、荒井、津賀浜、大志崎の名主と挨拶を交わし、家に着く
頃にはすでに東の空は、シラミ始めた。半時で陽が昇る様相である。庭には村の主な人が集まり、
重右衛門の返りを待っていた。 
長屋門から入るなり、一同の
 「あけまして御目出とう御座います」
 の声が響く。
 「お目出とう」
 と、返すが、返す玄蕃の言葉に張りがなかった。

 「旦那さま」
 と妻の千代が呼び止め、紋付袴の衿と袴の裾を直し身仕度を整へながら不審に思い
 「鹿島で何かあったのですか」          
 と、問うた。           
 「何も無い」
 と、無愛想に一言と普段と違う夫に疑問を持った。五年目の夫婦でも気がついた。夫の不機嫌。
 「出来ましたよ」
 玄人は、座敷に上がり板の間、土間の村方一同に向かい新年の挨拶をしたが気は乗らない、い
や乗れなかった。
 「お目出とう。今年も皆で助け村中がいい年を取れることを願い、精進されたい」
 組頭の茂蔵が音頭をとり祝杯が上げられた。
 ここに居る者は、盃の事は誰も知らない。
 一七九九年、寛政十一年 己 未年正月、元日の朝、東の空はまどろみ初日の出が近い。南東
の大海が茜色に染まり、一筋の根雲がなびき、真っ赤な太陽が頭を出した。荘厳な一瞬、初日を
村中で拝み『今年の海上の安全と大漁』祈願する。と声を出す者、静かに手を合わせる者いろい
ろである。

今年は、根雲も僅かで穏やかな初日の出であり鹿島浦では、上空に寒気があると必ず水平線に入
道雲が湧き、時々稲妻が走る。寒気が強い程入道雲は威張る。海は『ナギ』川に近く波も小さく
『たらい』でも出船が出来そうな海。滅多に無い海の姿であった。

 初日の出を拝み、改めて祝いの宴が始まった。宴は、新年を祝い村の親睦と結束を兼ねた恒例
の行事であり、賑やかな宴席となる。
 それぞれの胸には、新しい年の思いが込められ、新年に掛ける期待は大きく、村方の勢いは、
いつものそれより派手で賑やかである。 『これが最後の宴』に成る事への暗黙の予兆だったの
かもしれない。

 『10日後の惨事は、まだ誰も知らない』
 「沖合−唄が出ないぞ−うただ−唄−」
 「景気付けに大漁節がいいぞ−」と玄蕃。
 「よぉ−し、やるか」ドスの効いた声が答える。
 「それ、みんな−、手拍子だ−手拍子−」
 新年の目出度い座敷、めったに飲めない樽酒の勢いが重なりにぎやかな年賀と成っていた。

 「ひとつと−せ− 一番袋に−決め込んで−こころ−は−ざんざーと− 船頭さん 浜−大漁
だ−ね−。
 ふたつと−せ− ふたつ−並べたこの袋−どちらが−えかか−ろ−せん−どう−さ−ん浜−大
漁−だ−ね−。」

(唄は、三番から二十番まで続きその後は即興で果てしなく続く)
 「とお−とせ− とおが−かさなりゃ−百とやら−− 千−両− 万−両を−引き上げる 浜
−大漁−だ−ね−。」
 「今年は、いつもより派手だね」
勝手場で賄いの女衆の話が聞こえる。
 鹿島浦の荒磯、荒波で鍛えた喉は、声の張り,渋さに聞き惚れる。海の男の歌いである。
いつしか、玄蕃も盃の事を忘れいつもの機嫌になっていた。

 穏やかな天気、地酒、接遇で陽気な座になり、気持ちの良い歌と酒の勢いが沖合、船頭を和や
かにし、手拍子と間の手が唱和して近来になく派手になった。
 替へ唄、即興で続く鹿島大漁節は銚子大漁節の元唄とも言われるこの歌は、祝いの席では無く
てはならない歌である。

大漁節は漁師の願望とお家繁盛、海上安全の願い節である。
 元日の陽も暮れかかり船頭たちも三々五々、千鳥足で挨拶をして帰って行く。玄蕃は、明日の
江戸表への年賀の準備に忙しく、松吉にタコやハマグリ等、手土産の荷造りの指図をして、夕焼
け空を眺めながら庭に出た。酒でほてった体には寒さが気持ち良かった。

 翌日、玄人は挨拶の手土産を揃へ、千代が着替えを包みながら
 「気を付けて」
 と、甘えた声でささやく。
 往復一週間、江戸の知行所へ年賀の旅である。北浦の椎木河岸まで歩けば江戸まで歩かないで
一日で行けるのが自慢でもあった。
みな、叫び声を、言葉の意味を、一瞬、はかりかねた。
 「そらだ−−そら− あの雲だ−−」と手を伸ばす。  
その手の先にはどす黒い雲が青空を隠し始めていた。雲がいたのだ。異変の速さは漁師一代、一
生に一度有るか無いかの強烈な『カンパズレ』の光景である。

 玄蕃や女衆、子供もみな空を仰ぎ、我に返ったが、時すでに遅かった。
老漁夫の顔面には汗か、涙か三筋の流れが頬を伝わる。
 『カンパズレ』を知る沖合は、今は、もういない。あのキレテ飛んだ雲を見逃し、出船を止め
られなかった己れの眼力と非力が老漁夫の額に水を溜めた。
老漁夫には先が見えた冷汗である。今は僅かに太陽の光が、雲間から覗くだけである。どれだけ
の人が助けられるか。唯、それだけである。
 「ザザ −、ザザ−」
と、風と砂が飛び始めた。風は『うしとら』から吹きつけて来た。波より早く風が来た。そして
白波が立ち始めた。
 「かねだ−−、鐘を鳴らせ−−」
 「薪をくべろ− 火を燃やせ−」
 「鐘を敲け− かねだ−」

 矢継早に怒鳴る老漁夫。タカボリは一瞬にして戦場になった。小さな体から絞るような、ドラ
声に近い太い声が飛んで来た。 眉間に深い憂いのシワを寄せ、目は異様に光り、そこには先程
までの控えた老漁夫はいない。仲間を守ろうとする海の男衆がいた。 そばだっていた海は波で
白くなり、吹き返しの風は強く成り、足元の砂が飛び始めた。

やがて雨とミゾレがちらつき、しだいに雪がまじる。 沖の七隻の船は、白波の間に見え隠れし
ている。必死で漕いでいる様にも見えた。
 『気が付いたか−?』
 老漁夫が叫ぶ。
 「船が回った−、回ったぞ−、火を焚け、火だ−」
 「まきだ−まき−、薪を集めろ−」 
半刻前まで浮かれていた浜は、一瞬にして奈落の底に落ちた。 玄蕃は一時我をわすれ、頭の中
が白くなっていた。浜には男衆はいない。年寄と女、子供で残ったのは名主の自分だけである。

 「半刻の間に−−まだ夢か−−」
頭の中は真白、まだ信じられない。信じたくなかった。
女衆が泣き叫び、玄蕃は震えが止まらない。陽は、すでに雲が隠していた。
焚火の傾ぐ火柱に照らされ、老婆が唱える「ナミアミダブツ、なむあ−みだ−ぶ−つ」のお経を
虚しく、淋しく現実を帯びて聞こえてきた。
 まっびるまなのに空は、墨をこぼした様に暗く、タカボリの焚火が顔を、天を照らし、炎は風
に吹かれ海に傾ぎ波を、海を染める。
まさに「地獄の夜中」の有様である。

 雪にミゾレが交じる。沖の船はすでに見えない。風に押され傾いだ火柱からは火の粉が夜空に
飛んでいく。それほど暗い。
 母の手につかまり
 「トウチャ−ン」
 と、叫ぶ幼子の姿
 「おと−−」
 と、叫ぶ妻は泣き声になっていた。
老婆がシワガレ声で
 「よ−し−−」
 と、息子を
 「おやじ−−」
 と、老父が叫ぶ。
 風にとばされる泣き声。かぼさい女衆と子供と年寄の声が飛びかう。声は丑寅の風に飛ばされ、
無常にも白波の海にかき消されて行く。
タカボリでは、うろたえた年寄と子供と女衆が泣き崩れている。

 玄蕃は目の前で起こった事実を認めたくなかったのかも知れない。顔面蒼白で声も出ない。村
中の男衆が乗り込だ船である。すでに船の姿は白い波涛と暗黒の空に呑み込まれ沖合、船頭、松
吉も海に消えてしまった。頭の中は思考が止まり真っ白。
朝、鐘が鳴ってからまだ二刻余りである。
『板子一枚下は地獄』の言葉は生きていた。南隣りの境田の船頭たちが駆け上ってきた。
 「わしら−船頭が揃わんでな−」   
半ば助かった安堵と哀れみの交錯する言葉が、風に飛ばされ、それを火の粉が追う。
 泣声と風と雪とミゾレがそれぞれに鳴く。
半時、やがて火をめがけて青塚、遅れて荒井、津賀浜村の名主が駆け上ってきた。
 「割本−えれ−事になったな−」
半ば涙声で『助けて−』と言わないばかりの面をさげ、息も切れ切れに、すがる様な目が事の重
大さを言っている。
 境田の男衆にタカボリの篝火を頼み、前後策を相談したが話はまとまとまらない。
それ程、皆正気を失い、まだ信じ切れないでいた。
『朝霧人を喰う』は鹿島浦の諺である。
『あの春がすみはカンパズレの前兆だった』
悔やんだが、それは後の祭りであった。
 二十尺前後の大きさのクジラ一頭を沖で捕ればでおよそ五十両、運上、歩一等の年貢、賄いを
引いても浜はお祭り騒ぎの大漁である。寄りものでもたいへんな「金子」になった。
「クジラに−、クジラに−−な−命取られたな−」繰り返し、繰り返し言いながら涙にむせぶ。
磯なれ松に雪が僅かに化粧して来た。シケは納まらない。明日からの捜索と生業を考えると、ま
た涙が湧いてくる。堪えて堪えても、とめどもなく湧いてきた。玄蕃は涙声を堪え、風の具合か
ら銚子陣家に房総方面の手配を頼む飛脚を送り出した。老漁夫の顔が、言葉が見えなかった未熟
を思い知らされた玄蕃は静かに目を閉じ瞑想に入った。
 やがて目を明け年寄と女子衆に青塚の天妃神社、武井の甲頭稲荷や鹿島神宮に参詣、祈願を言
い渡し、旗本岩瀬市兵衛、正木大膳に早や飛脚を立てた。
 数日後、シケの収まった浜には老漁夫の亡骸が舟に下がっていた。
半年の過ぎた浜は、火が消えたように静かである。ただ寄せては返す波の音だけは同じように聞
こえた。
 何処からも、何処からも何の報せも無い。何処からも板子一枚、竿一本の寄り物の報せも無い。
 年の押し詰まった霜月十一日
 「ギャテ−ギャテ−ハラ−ギャテ−、」
 棚木村大福寺住職の読経が静かに流れる中、こらえ切れずに泣きだす若妻、無邪気に遊ぶ幼子
の声が老い松に響き、こだまし哀れ、惨めさを誘う。霜水寺本堂で村中の人が集まり供養が行な
われた。
 鹿角堂裏の石塔場には 『海死霊菩提 各霊位』の供養碑が建てられたのは三年後であった。
石碑には
 角折村   五十七人   漁船 三隻
 青塚村    十九人   〃  一隻
 荒井村   三十四人   〃  二隻
 津賀浜村   十八人   〃  一隻
 合わせて 百二十八人   漁船 七隻 が海に消えた。
今、石碑を返りみる人は皆無にちかい。
 後の世に『坊主のたたり』とも言われる海難は、クジラ取りに命を賭けた漁師達の惨めな結末
に終った。そして、老漁夫の「うめき」はうめきで終った。
昭和二十年代頃まで
  つのおれ−つんと出て−流された−
  あおつか−あみばこしよいだした−
  あらい  不祥
  はまつが−はまべの しろうさぎ−』
 子供たちの戯れ歌が最近まで聞かれた。
平成十三年は二百二年になる。有志により供養が行なわれたが、知る人は皆無である。
武井村名主重兵衛の日記の記述には遭難者数、天候等合わないところがある。他村の出来事と、
海岸と北浦側の距離が相違を見せたのかも知れない。
 荒井村慰霊碑には俗名の者、女の名前も見られ直接海難に係わった以外にも犠牲者がいた事が
充分に考えられる。      (了)

あとがき

 十一回にわたり『カンパズレ』を掲載した。
この海難は、起こるべきしておこった事故とも考えられる。背景には厳しい漁村の生活をかいま
見る。年貢、運上金、歩一、などの『税金』と水夫を養う網元の経済力が問われる。
 不思議なことにこれだけの犠牲を出したにも係わらず村の『行事』としての慰霊祭が記録に残
っていない事である。
 それは『坊主の祟り』の伝承が介在するとも思考される。
 
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